ヘブル人への手紙13章8節
「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」
【序】変わることのない神キリスト
今年は令和2年です。令和とか平成とか昭和という元号は、明治維新以降はお一人の天皇陛下の在位期間に用いられています。代々の天皇陛下の在位を合算した皇紀という暦もありますが、天皇陛下でさえ時と共に交代していきます。
一方、今年は西暦2020年です。西暦は、欧米ではAD2020と書きます。ADが紀元後でBCが紀元前です。BCとはビフォア・クライスト即ちキリスト以前という意味です。またADとはアンノドミニ、ラテン語で「主イエス・キリストの年に」という意味です。ですから、西暦とは昔も今も、イエス・キリストが基準になります。御一人の方が基準になるとはどうしてでしょうか。
その答えが聖書には記されています。新約聖書ヘブル人への手紙には、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」と記されています。
私たちは激しく変化する時代に生きています。そのような時代に生きるからこそ、変わらないことの大切さを意識します。聖書が説き明かすイエス・キリストが、変わることのないお方だということをご一緒に分かち合いましょう。
【本論1】変わることなく存在する方:キリストの神性
聖書はイエス・キリストのことを繰り返し「神の子」と呼んでいます。いささか不謹慎なたとえですが、猫の子が猫であるように、あるいは人間の子が人間であるように、神様の子はやはり神様です。
聖書が書き記す神様は、時間を超えて存在するお方です。歴史の始まる前から居られ、今も居られ、この先にもずっと居られるお方です。
ヨハネの黙示録にはそのようなイエス・キリストを「今いまし、昔いまし、後に来られる方」と呼んでいます。また、神様は空間を超えて存在するお方です。旧約聖書のエレミヤ書で神様は「天にも地にも、わたしは満ちているではないか」と告げられました。
そして、私たち人間が生きていくためには、光も水も酸素も、日々の食べ物も必要です。言い換えれば私たちは光や水や酸素や、食べ物などによって生かされている存在です。しかし、光も水も酸素もすべて神様が創られたのですから、神様はそれらに生かされているお方ではありません。また、私たちは、時が経てば変化しますが、神様は年老いることがありません。イエス様は生まれ、成長し、大人になり人間としては変化しましたが、神様としては、今もおられる、変わることのないお方です。
私たちが信じようとする相手が、突然いなくなるような者では、信じようにも信じきれません。しかし、神の子イエス・キリストは、変わることなく存在するお方です。安心して信じられます。
【本論2】変わることのない愛:キリストの性質
この変わることのない神の子イエス・キリストは、変わることのない愛に満ちあふれたお方です。新約聖書にはキリストの愛について記された言葉が多くあります。たとえば、エペソ人への手紙に
「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と、ヨハネの手紙第一に「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」とあるようにです。
このキリストの愛について、思いやる愛、恵みの愛、あわれむ愛、耐え忍ぶ愛、自己犠牲の愛という5つの性質をご説明いたします。
思いやる愛とは、相手にとって何が良いことであるかを判断して、それを与える愛を言います。イエス様はご生涯のうちに何度も目の見えない人の目を開いています。その時彼らは、当面の生活に必要な金品を求めていました。しかし、イエス様は、彼らが光を取り戻すことこそが必要だと判断され、目を開かれたのでした。
恵みの愛とは、相手がどれほど価値があるかに関係なく、また見返りを求めることなく相手に良くする愛を言います。イエス様は「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と教えられました。そして、ご自身を裏切ったユダに対してさえ、その愛を絶やすことはありませんでした。
あわれむ愛とは、悲惨な状態にある相手に対して、かわいそうに思って接する愛を言います。ヨハネの福音書には、38年の間病に伏せっていて、誰からも相手にされなかった男に対して、かわいそうに思われたイエス様が声を掛け、病気を癒された話が記されています。キリストは私たちの痛みを知ってくださるお方です。
耐え忍ぶ愛とは、相手の悪意に対して怒ることなく、愛し続ける愛を言います。十字架に掛けられたイエス様は、多くの人たちに笑いものにされ、つばを吐きかけられ、罵られました。しかし、イエス様は十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と自分を罵る人々のために祈りました。
そして、自己犠牲の愛とは文字どおり、自分を犠牲にして相手の為に良くする愛を言います。ペテロの手紙第一には「キリストは、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」と記されています。イエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちのための自己犠牲の愛の現れでした。
相手を選ばず、見返りを求めず、ご自分を犠牲にしてまで私たちを愛するキリストの愛は尽きることも、変わることもありません。
【本論3】変わることのない約束:キリストの福音
この変わることのない愛のお方であるイエス・キリストが、私の罪の罰を代わりに受けて十字架で死んでくださり、三日目によみがえって私を罪から解き放ってくださったことは、旧約聖書の時代から長い間、約束されてきました。旧約聖書の最初、創世記に初めて記された約束は、次第にその内容が明らかにされて、イザヤ書では「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」と救い主のことが具体的に記されています。
そして、この変わらない約束は成し遂げられました。これを聖書では福音と呼んでいます。福音とは良い知らせという意味です。それは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と、ヨハネの福音書に要約されています。
この福音を信じ受け入れるならば、約束どおりに永遠のいのちを受け、この世の生涯を終えた後も天国での平安と新しい世界での永遠の喜びが待っています。また、いつも「私を愛してくださる方が一緒だ」という安心感に包まれて、この世の生涯を歩むことができます。なぜなら、イエス様は「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です」と、ご自身が去った後も一心同体である聖霊が共におられると約束されたからです。変わらない愛で愛する方が共に居られる。それゆえ信じる者には変わらない平安があります。
【結語】変わらないキリストを受け入れる。
めまぐるしく移りゆく世の中で、人は「変わらないもの」に心を寄せ、そこに真実の平安を見出そうとします。それゆえ、「変わることのない愛」のお方であるキリストを求め、キリストを心に受け入れるならば、そこにこそ本物の平安、真実の安らぎがあります。
あなたの心にイエス・キリストを受け入れられますよう、心からお勧めいたします。
megumipreaching
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