ヨハネの福音書14章6節
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
【序】「わたしが」と語られるキリスト
イエス・キリストは「わたしが」と、明確に自らを指し示します。古今東西、今に至るまで100年以上の時を超えてその教えが受け継がれてきた宗教家や哲学者は数多あります。そのすべてが「人はいかにして生きるか」という共通の大きなテーマについて追求し、彼らなりの回答を残しています。それが、宗教倫理や社会倫理です。また、宗教の教祖、あるいは宗派の開祖と言える人々は、特に人はやがて来る死をどのように受け入れるか、死に対する解決はあるのかという問題に対して、彼らなりの解答を残しています。それこそが宗教です。彼らは、それが正しいものかどうかはさておき、道を説き、真理を指し示し、いのちを教えました。しかし、ご自身を指し示すお方はイエス・キリストをおいて他にはいません。
ですから、キリスト信者は「キリストの教え」を求め、その教えを信じて実践するのではなく、「キリスト」の御人格そのものを慕い、求め、崇拝し、その姿に近づこうとする者です。
【本論1】道であるキリスト
さて、神様と私たち人間との間には届かない程の隔たりがあるため、私たちは自力で神様の所には行けません。また、私たちは神様によって与えられた自らの使命を行うことも、その使命を知ることもできません。この使命こそが私たちの生きる意義なのにです。
旧約聖書においても、ダビデは詩篇の中で「主よ、あなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください」と神様に道を求める思いを書き綴っています。
そのような状況のもとで、イエス・キリストはご自身を「道である」と仰いました。人はイエス様のうちにあってこそ神様に連れ戻され、神様にお目にかかることが許されるのです。イエス様は私たちを神様の御許に連れて行くために、十字架の苦しみをしのばれ、神様と私たちの間のつないでくださいました。ヘブル人への手紙 10章20節には「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました」と記されています。このイエス・キリストという「生きている道」を通ってこそ、人は本当に自分に与えられている神様の使命をなしうるのです。
【本論2】真理であるキリスト
続いて、イエス様はご自身を「真理である」と仰います。ヨハネの福音書8章32節でイエス様は「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」とお語りになりました。真理とは「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道」という意味です。ですから、あらゆる問題に関して、ただ一つしか真理は存在しません。
イエス・キリストはご自身を真理であると仰いました。それは、神様と人間の関係における真理という意味です。このイエス様はすべてをご存知で、罪の汚れがなく、無限の能力を有すお方であり、造り主から遣わされた造り主と一体のお方であるにもかかわらず、弱く、汚れた罪人に過ぎない私を愛してくださいます。神様は無条件で私たちを愛しておられる、これこそが神様と私たち人間の関係における真理です。
コロサイ人への手紙2章9節に「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」と記されているように、イエス様はあらゆる真理を身をもって現されるお方です。この真理であるイエス・キリストに出会う時、私たちは根本的な問題が解決され、私たち自身が変えられて神様との関係が修復されます。
【本論3】いのちであるキリスト
そして、イエス・キリストはご自身を「いのちなのです」と仰いました。この「いのち」こそが人のあらゆる問題の根源である最大の関心事です。いのちを永らえ満喫することに私たちの目的があり、また、私たちが目的を達成するための活力こそがいのちなのです。
キリストがご自身を「いのち」と仰ったのは、1つには神様との関係を修復し、神様のみもとに到達するための力だという意味です。私たちは世にある間、キリストから活力漲るいのちをいただき、主の御姿へと変えられるよう信仰生活を歩みます。そのためにキリストをますます知ることにこそ信仰生活の活力があり、信仰生活の楽しみがあります。キリストを知る人生は、いのちを楽しむ人生です。
イエス様がご自身を「いのち」と仰ったもう1つの意味は、イエス様こそが「神様のいのち」であり、イエス様の贖いを受け入れることこそが、神様のいのちに与ることだということです。贖いとは代価を払って買い戻すという意味です。即ち私たち自身がイエス様のものになるという意味ですが、それによってイエス様が自らのものとなります。それを確証するかのように、クリスチャンはキリストのからだである教会に所属します。そして、クリスチャン個人個人には、キリストと一体である聖霊が住まわれます。私たちはキリストの内に生き、キリストは私たちの内に生きておられるのです。
【結語】キリストを通してでなければ
イエス様は続けて「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と仰いました。ご自身こそが神様と人とをつなぐ唯一の架け橋だという意味です。これは使徒の働き4章12節にも同様に「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」と記されています。
沖縄のクリスチャン・シンガーのSakiさんによる「道=愛」という賛美の冒頭に、Sakiさんのひいおばあさんが作った琉歌が歌われています。琉歌とは8,8,8,6の30文字を基本とする沖縄の歌です。
「歩む道筋や いくふどぅんあしが 人の踏む道は ただひとつ」と歌われます。「歩む道筋はいくつもあるけれど人が行く道は一つだけです」という意味です。一方で宗教はどれを信じても大差ないという意味で「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」という短歌もあります。確かに「人はいかにして生きるか」というテーマに何らかの回答を出すという点ではそうでしょう。しかし、月だって見る角度で美しさは異なります。たった一つしか道を選べないなら「わたしが道である」と招くキリストをお奨めします。
本投稿をお読みのあなたが、イエス・キリストという道をお選びになりますよう、心からお勧めいたします。
megumipreaching
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