マタイの福音書6章1~6節
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。 あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
マタイの福音書6章16~18節
「あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」
【序】「わたしが」と語られるキリスト
冒頭に「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」とイエス様は命じられました。この善行というのは、ユダヤの宗教的に神様の前で行われる正しい行為のことです。施し、祈り、断食の3つはユダヤ人の宗教生活を支える大きな3本柱でした。
【本論1】偽善者たちのやり方
この施し、祈り、断食について、イエス様はいずれも「偽善者たちのようであってはいけません」と言われます。
施しは、「人にほめてもらおうと会堂や通りでするように」してはいけないと言われます。施しを受ける人の立場に立てば、人前で施しを受けたいでしょうか。むしろ目立たない所でお願いしたいでしょう。ところが、偽善者は人前で行おうとします。彼らが大切なのは、施す相手の喜びよりも、人々から誉められることだからです。
続いて祈りは、「人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って」祈るようではいけないと言われます。祈りは、神様との会話です。皆さんはどうでしょうか。親友が恋人との内密な電話を大ぜいの前でされたら嫌な気分になるでしょう。ところが、偽善者は人前で祈ります。彼らが大切なのは、祈る相手である神様との対話よりも、熱心に祈っている自分を人々に見せることだからです。
そして断食は、「断食をしていることが人に見えるように、暗い顔を」してはいけないと言われます。断食は神様に対するものでした。しかし、偽善者は断食をしている間、人前で暗く、やつれた顔を見せます。彼らが大切なのは、神様に対する思いを表すことよりも、人々が自分のことを熱心だとほめることだからです。
実に、偽善者たちの行いはいずれも、人の評価が目的でした。 偽善者たちの行いについて、イエス様はいずれも「彼らはすでに自分の報いを受けているのです」と評価されます。この世の評価を求める偽善者には、人の評価だけが与えられるのです。
【本論2】隠れた所で行うならば
一方、イエス様は施し、祈り、断食について望ましい仕方をお語りになりました。施しについては「右手の行いを左手に知られないように」と命じられます。しかし、同じ脳が両手を動かすのですから、分からない筈がありません。
これは、それほどに施しを受ける相手、困っている人に心を向けなさいということです。なぜなら、その困っている相手こそが神様が愛しておられる相手だからです。
祈りについては「家の奥の自分の部屋で戸を閉めて」と命じられます。そうは申しましても、教会では代表がみんなの前で祈ることもあります。これは、心を神様に集中させて祈りなさいということです。なぜなら、祈る相手は神様だからです。
断食については「頭に油を塗り、顔を洗いなさい」と命じられます。そうしていると顔がさっぱりして見えるため、断食をしていることが人に知られないからです。なぜなら、断食とは神様に対して悔い改めや悲しみ、願いを表すための行いだからです。
イエス様は、神様に向かって良い行いをするように教えられます。そのように行うならば「隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます」とイエス様は告げられます。
【結語】どこを向いて生きていくか
この教えは、イエス様から私たちに対する「あなたはどこを向いて生きていくのか」という問いかけだと言えます。イエス様が問題にされた3つの事例は、いずれも信仰者の為すべき行いでした。そうした行いでさえ、人の方を向いて行うか、神様の方を向いて行うかが問われます。
ましてやどのような行いをするかを選ぶ時点でも、神様を喜ばせる行いをするのか、自分を喜ばせる行いをするのかによって、私たちは人の方を向いて生きていくのか、神様の方を向いて生きていくのかを選ぶことになります。
このみことばの教えを通じて、イエス様は人の方を向いて生きる生き方から方向転換しなさいと私たちを招いておられます。そうでないと、「天におられるあなたがたの父から報いを受けられません」と告げられます。この父なる神様の報いとは、神様がいつも共にいてくださり守ってくださること、そして、天の御国をイエス様と共に受け継ぐことです。
神様は、私たちがご自分の方を向いて生きると決断する前から、私たちをその罪による滅びから救うために、ご自身の御子イエス・キリストを世に遣わし、十字架の犠牲によって私たちの罪を帳消しにされました。ですから、このお方の方を向いて生きるならば、私たちはやがて天の御国を受け継ぎ、永遠のいのちを満喫するばかりか、この世においても生きる目的を見失うことがありません。
本投稿をお読みのあなたが、イエス・キリストの福音を受け入れて、神様の方を向いて生きられますよう、心からお勧めいたします。
megumipreaching
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