【序】敵を愛することの実践
前節の「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という教えに続くもので、この教えを具体的に説明したみことばです。
舌切り雀のお話はご存知でしょう。「昔々、ある所に優しいお爺さんと、そのお隣に欲張りなお婆さんが住んでいました。お爺さんが怪我をした雀を家に連れ帰って手当てをすると、雀はたいそう懐き、お爺さんも雀を可愛がりました。しかし、隣のお婆さんはそれが面白くありません。ある日、雀がお婆さんの家で障子の張り替え用の糊を食べていました。お婆さんはそれを見て怒り、雀の舌をハサミで切ってしまい、家から放り出しました」という話です。ここで、雀にとってお爺さんは味方で、お婆さんは敵だと言えます。
【本論1】敵にも味方にも同様に接する
お話は続いて「雀を心配するあまり、山に探しに行ったお爺さんは、藪の奥に雀のお宿を見つけました。するとお宿の中から雀が出てきてお爺さんを招き入れました。雀は、糊を食べたことを詫びて、心配して探しに来たお爺さんに感謝を伝えました。そして仲間の雀と一緒にご馳走を用意して、歌や踊りでお爺さんをもてなしました。帰りにはお土産にと大小2つのつづらが用意されていました。お爺さんが小さい方をもらって家に帰ると、中には金銀財宝が詰まっていました。それを聞いたお婆さんは、大きいつづらをもらって来れば、中にはもっと多くの財宝があるはずだと思いました。それで、お婆さんが雀のお宿に押しかけたところ、雀は嫌な顔をせずにもてなそうとしました」と、雀は愛するお爺さんと、自分を苛めたお婆さんに同じ対応をしました。「お婆さんは、雀のもてなしを辞退してお土産を求めました。大きいつづらを強引に受け取ってお宿を出ました。家に帰る道の途中、つづらがどんどん重くなって耐えられなくなりました。そこでつづらを開けると、中からオバケがいっぱい出てきました」という話ですが、結局のところ、雀はお婆さんに復讐した訳ではありません。お婆さんは、オバケが入っているとは知らなかったにせよ、自分で大きいつづらを選んだのですから、受けた報いはあくまでも自分の物欲の結果だったわけです。
【本論2】私たちは雀ほどにも敵を愛することができない
さて、このみことばは「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか」とでした。取税人とは今の税務署職員のようなイメージではなく、自分たちの国を支配している勢力の手先で、人々から不当に金銭を取り立てる人たちでした。また、当時のイスラエルの社会では異邦人、すなわち外国人は嫌われていました。そのような嫌われ者でさえ、自分に良くしてくれる相手や自分の身内のことは愛するのだから、それは当たり前だ。自分の敵を愛してはじめて愛の行いなのだと、イエス様はお話されました。
私たちはどうでしょうか。自分に敵対する人に親切にできるでしょうか。自分に良くしてくれる人にしか愛を表さないのではないでしょうか。もしかしたら、自分に良くしてくれる人にさえ、十分な愛を示していないかもしれません。だとすると、ここでイエス様が言われた取税人や異邦人どころか、舌切り雀ほどの愛も持ち合わせていないと言えるのではないでしょうか。
【本論3】私たちこそがイエス様の敵
私たち人間は、神様によって創られ、神様のご栄光を現すべく世に置かれました。しかし、最初の人間であるアダムとエバの時点で、私たちは神様のご栄光を現すのではなく、神様のご栄光を自分のものにしようとして、禁断の木の実を食しました。以来、人は罪の支配に陥り、神様との霊的な交わりが断たれました。この交わりを断ち切ったのは、ほかでもない、私たち人間の方です。
しかし、神様はこの私たちとの霊的な交わりを何とかして回復しようとして、私たちとの間に契約を立てられました。最初は戒めを守り、いけにえの血を流すことによる一時的な回復でした。時が満ちて与えられたのは、神様ご自身のひとり子、イエス・キリストの十字架の血潮による永続的な回復という契約です。それは旧約聖書の創世記に「わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する」と言われた神様の原則に従ったものでした。
すなわち、私たちは本来創られた目的を自ら踏み外し、私たちが明らかにすべき神様の栄光を掠め取ろうとし、神様との交わりを自ら断ち切り、その回復のために神様の御子の血を流させるに至った原因ということになります。誰あろう私たちこそが神様の敵、キリストの敵だったわけです。
【結語】敵を救うために世に来られ
ご自身の敵である私たちのために、イエス様は何をしてくださったでしょうか。主は、敵である私たちを救うために身を低くして世に来られました。新約聖書ピリピ人への手紙に「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」と記されるとおりです。そして主は敵である私たちにとことん寄り添ってくださいました。また、イエス様は、敵のために様々に便宜をはかってくださいました。時には足りないぶどう酒を満たし、数多の悪霊を追い出し、病気を治し、十字架につけられてなお、嘲る者たちのために御父にとりなし祈られました。誰をも分け隔てなく愛されました。そして、敵である私たちを永遠の死から救うために十字架にかかられたイエス様こそ、ご自身を迫害する者を祝福したと言えましょう。主は復活された後もご自身を十字架につけたユダヤの指導者層に復讐しようともなさらず、ご自身の教会を迫害するパウロさえも「なぜわたしを迫害するのか」と呼びかけ変えられて、働き人として用い、その働きを祝されました。
本投稿をお読みのあなたが神様の愛を受けられ、イエス・キリストを信じて受け入れられますよう、心からお勧めいたします。
megumipreaching
FC2ブログへようこそ!
コメント