山上の説教23:敵を愛せよ

マタイの福音書5章43~45節
『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」

【序】敵を愛しなさい

 私は石川県の公立高校の出身ですが、毎年発行される生徒会の年報のような文集に、卒業生一人一言のコーナーがありました。小中学校の卒業文集や色紙の寄せ書きとは違って、みんなくだらないことを書くのですが、その中に『キリストは汝の敵を愛せよと言った。しかし世の中はそんなに甘くない』と書いた同級生がいました。卒業しても大学にいくので、まだまだ世の中に出て行かないにも関わらず、よく言うよと思ったものです。しかし、現実には彼の言うとおりでしょう。生き馬の眼を抜くような世の中にあって敵を愛することは甘いと言われても仕方ありません。しかし、そこにこそ、目に見える現実を打ち破る真実があると確信するのです。


【本論1】愛するってどういうこと?

 さて、愛するとはどういうことでしょうか。英語で「私はハンバーガーが大好きです」という時には、"I love hamburgers"と言います。愛するには「大好きだ」という意味もありますが、ここでは愛しなさいと言われている愛するは、大好きとは意味が違います。「好き」というのは感情の表現である一方、「愛する」は意志に基づく行為です。

 ここでイエス様が仰る「愛する」とは、相手の幸せを願い、相手の幸せに貢献することです。ここでも「好き」というのはあくまでも自分がどうなのかを表す言葉ですが、「愛する」は相手本位になすべき行為と言えます。

 聖書に記される愛の性質をよく表しているみことばがあります。新約聖書、コリント人への手紙第一13章4~8節に「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません」と記されています。そこには、相手を優先し、自分を前に出さず、変わらない姿を見ることができます。イエス・キリストの生涯にこそ、その愛があります。


【本論2】愛の見本はイエス様にある

 イエス様の生涯が記された福音書には多くの奇蹟の御業が記されています。その中に人々の必要を満たす御業があります。イエス様の話を聞くために集まった5千人以上の群衆の食事を賄うために、少年の差し出した5つのパンと2匹の魚を祝福して、群衆全体を満腹にする程の量に増やしたり、結婚式に招かれた時、足りなくなった葡萄酒を賄うために、水がめに満たした水を葡萄酒に変えたりして、人々の必要を満たしました。しかし、ご自分が空腹の時には、悪魔の誘惑を振り切って、奇蹟を行う力を自分のためには使いませんでした。また、38年間病に臥せっている人を癒されたり、ハンセン氏病にかかって社会から締め出された人を癒されたりと多くの病気の人や目の見えない人を癒し、生きる希望を与えました。

 さらに、世間から蔑まれている人や、憎まれている人をも避けることをせず接しました。ヨハネの福音書に記されるサマリヤの女は、街ではふしだらな人との評判で、井戸に水を汲みに来るのも人目を憚っていましたが、イエス様は彼女の事情をご存知の上で語りかけて救いに導きました。ルカの福音書に記される取税人ザアカイは、その職業と身体的な特徴のゆえに街中の嫌われ者で蔑まれていましたが、イエス様は彼とともに食事をして、救いに導きました。イエス様はいつも、他者の喜びのために行動されました。


【本論3】なぜ、敵を愛するのか?

 ところで、私たちはなぜ敵を愛するべきなのでしょうか。まず、思いつくことは「敵を消し去るため」です。イエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさいと言われました。自分を迫害する者のために祈るならば、祈りを通じて聖霊が働き、その相手に対する敵意が薄らぎます。やがては、少なくとも自分の側から見るとその相手は敵ではなくなります。そうして敵をひとり、またひとりと消し去ることができます。それは相手側から見ても、自分に敵対する人を減らす最善の方法と言えます。

 また、イエス様が「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです」と言われたとおり、私たちが神様の子どもになるためです。子どもになるとはそのお方の性質を共有ということです。天の神様は世にあっては、ご自身に従う者にも従わない者にも同じ恵みを注がれます。私たちはそのような神様の分け隔てない正しさを身に着けることで、神様の素晴らしさを人々に見せることができます。

 そして、私たちが敵を愛すべき大きな理由は、何と言っても私たち自身が愛されているからです。生まれながらの私たちは、罪によって神様を悲しませる存在です。いわば私たちは神様の敵です。しかし、神様はその敵である私たちを愛してくださいます。だからこそ、私たちも敵を愛するべきなのです。


【結語】十字架のイエス様は愛の極み

 先ほど、イエス・キリストの生涯にこそその愛があるとご紹介しましたが、最高の愛のかたちは自らを犠牲にすることだと言えます。

「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われた神様のひとり子のイエス様は、神様を悲しませる罪にまみれた神の敵である私たちに対して、ご自身の愛を極みまで注がれました。神様であられるのに人として世に来られ、何ひとつ罪がないのに、十字架にかかられて血潮を流され、いのちまで捨てて、私たちの罪の責任を負ってくださいました。その際にも、ご自分を罵り、あざ笑う人たちのために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られました。

 これほどまでにイエス・キリストが敵である私たちを愛し、迫害する私たちのために祈ってくださったのは、イエス様ご自身を自らの救い主、自らの主と信じる者を天の御国に迎え入れ、神様の子どもとするため、すなわちご自身の家族として愛するためなのです。実に、私たちはこれほどの愛を、自らが敵対しているイエス・キリストから注がれているのです。

 本投稿をお読みのあなたがこの注がれた神様の愛を受けられ、イエス・キリストを信じて受け入れられますよう、心からお勧めいたします。

コメント

非公開コメント