山上の説教22:求めてくる者、強要する者に対して

マタイの福音書5章40~42節
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。」

【序】偽善者呼ばわりされるクリスチャン

 みことばの中にあるミリオンという言葉は、ローマ帝国の時代に距離を表した単位で、1ミリオンは約1.5kmです。

 残念なことですが、キリスト信仰をよく知らない人から、しばしばクリスチャンは偽善者呼ばわりされることがあります。「キリスト教の人はきれいごとばっかり言っているけど、世の中の避けて通れない、暗い部分に目を背けて生きているだけじゃないか」とか、「クリスチャンはキリストの教えのとおりに生きていないじゃないか」などというご批判の後に偽善者だと言われます。

 そのような批判の中には、キリストの教えを知らずにされるものもありますし、ほとんどクリスチャンとの接触がないにも関わらずいたずらに批判しているものもあるようです。しかし、キリストの愛の素晴らしさに比べて、クリスチャンの愛が乏しいからだという現実は、私たちが重く受け止めるべきことです。


【本論1】圧力に圧力で応えない

 ここで取り上げたイエス様の言葉の中には、3種類の方法で便宜を求める人の姿が記されています。最初の「あなたを告訴して下着を取ろうとする者」とは法的な圧力を用いてものを取る人のことです。次の「あなたに一ミリオン行くように強いる者」とは、当時、ローマの兵士は荷物を運んでいる時に、一ミリオンの距離だけ誰かにそれを持たせる強制力を持っていましたが、その権力を用いる人のことです。最後の「求める者」「借りようとする者」とは、特別な理由や相応しい担保もなく相手に便宜を求める人のことです。そのような時に、普通、人はそれを拒否します。時には争ってでも自分の権益を守ろうとするものです。

 しかし、イエス様は求めるものには与えるように、あるいは求める以上に与えることで対処するようにと進めます。その真意というか結果については2つの見方があります。1つは、求める以上に与えようとすることによって、相手が要求を取り下げるからだという見方です。下着を要求する人にそれ以上の価値がある上着をも与えようとすることによって、相手が自分の要求を恥じて訴えを取り下げるとか、二ミリオンの労をとることに申し出るならば、その兵隊は上官に叱られることを恐れて引き下がるという考え方です。たしかに、それもひとつの真実を表しているといえます。


【本論2】野放図に言いなりになるのではない

 教会には時々、電車賃を借りに人が来ます。私の又聞きした話ですが、例えば南富山駅近くの私どもの教会であれば、持合せがなくなったと言って、高岡、あるいは金沢までの電車賃を借りに人が来たとします。その時に「お貸しできませんので、お送りしましょうか」と持ちかけると、大半は結構ですと言って立ち去るそうです。

 しかし、イエス様の勧められた方法は、そのように相手が引き下がることを期待したものではなく、相手の理不尽な求めに対しても、愛によって応えなさいという意図をもってのものと言えます。

 もちろん、無条件に与えると言っても、相手のためにならない方法で譲歩することは良くありません。アルコールやギャンブルや、あるいは買い物への依存的な傾向がある人から金銭を求められた時に、相手の要求どおりに、あるいは相手の要求以上に与えるのでは、ますますその人の依存症をことになりかねないからです。

 また、聖書は悪を懲らしめるための、権威の存在を否定していません。ですから、警察や裁判所などの権力が、他人に対して理不尽に便宜を要求する人に対して、一定の罰を与えることは正当です。

 それらを踏まえてなお、イエス様は自らの執着心やプライドを捨てて、愛によって与える者になりなさいと、ご自身に従う者たちに命じられたのでした。


【本論3】できない自分に直面する

 このみことばの前節では「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と、相手の敵意に対して愛によって応えて、敵意を消し去る生き方を学びました。同様に相手が私たちに対して強引に何かを求めたり、あるいは正当な理由もないのに何かを求めたりする場合でも、愛によって応えて、喜んで与える者になりたい、そのように生きていきたいと、キリストを信じる私たちは願っております。

 しかし、現実問題として私たちにはイエス様が教えられたように喜んで与える生き方ができません。なぜなら、まず私たちは打ち出の小槌を持っておりませんから、与えるばかりでは自分の分がなくなります。また、私たちはやはり自分の持ち物を惜しむのです。

 改めて読んでも、このみことばに記されたイエス様の教えは、要求以上に与えよ、命令以上に仕えよ、惜しまずに与えよという、とてもハードルの高い教えです。やはりできそうにもありません。そもそも私にはそこまでの愛はないからです。この教えに直面することによって、自分の物欲の深さや、プライドの高さ、自己中心の性質を認めずには居られないのです。私を見た人が「あなたの生き方はキリストの教えからは程遠い。クリスチャンなんて偽善者だ」と言うならば、少なくとも前半の「あなたの生き方はキリストの教えからは程遠い」という指摘は認めざるを得ません。


【結語】イエス様のうちにこそ

 だからこそ、私を見て偽善者だと批判する人には、私ではなく私の従うキリストを見ていただきたいのです。私たちには実現しようもないこの教えを、イエス・キリストは見事に実践されました。疲れた中でも人々の病をいやし、乏しい人にはパンを与え、憎しみに対しても愛によって応える生き方を貫かれました。できない自分を振り返るごとに、イエス様の愛の大きさを思わずには居られません。そして、このイエス様の愛は私たちの罪の罰を身代わりに受けて、私たちを罪から解放するために、十字架でいのちを差し出すほどの偉大な愛であることが聖書の福音の中心にあるのです。

 そして、この愛で私は愛されています。十字架は私を愛するイエス様の愛のしるしです。それを信じるがゆえに、イエス・キリストを信じ、従っています。できないながらも、イエス様を見上げて、イエス様の生き方に近づくべく歩んでいます。

 本投稿をお読みのあなたも、イエス様に愛されています。ですから、あなたが神様の愛を受けられ、イエス・キリストを信じて受け入れられますよう、心からお勧めいたします。


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